オペラ玉手箱 [オペラ]

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6月29日(土)、新国立劇場大ホールで、「大野和士オペラ玉手箱」と題した

レクチャーコンサートが開かれました。

7月に、新国立劇場で上演される、プッチーニ作曲のオペラ「トゥーランドット」の

様々な内容を、大野さんが自らピアノを弾き、解説をする、コンサートでした。

この中で、大野さんは、プッチーニの音楽、オーケストレーション、歌や音楽に込められた作曲者の意図、登場人物像等を、丁寧に解説してくれました。

このオペラは、2018~19年シーズンの新国立劇場のオペラ公演の最後を飾るもので、大野さんがタクトを振ります。このオペラのソリスト(主に外人)の中で、まだ、来日していない、トゥーランドット役とカラフ役が、このコンサートの為に、若手が起用されました。グランドオペラのテノールの役としては、大変大きな、カラフ役に、工藤和真さんが抜擢されました。

 

中国、北京を舞台に繰り広げられる、スペクタルオペラの「トゥーランドット」は、今や

世界のオペラハウスでの人気演目です。そして、フィギアースケートの曲としてすっかり有名になった「誰も寝てはならぬ!」は、現在、東京上野駅の山手線発着にも使われるほどポピュラーになりました。

 

第1幕は、北京群集(コーラス)、召使で宦官のピン・ポン・パンの登場。そして、シルクロードの、とある国の王様で、国を追われ、流浪の旅に出ているティムール、その息子のカラフ、その旅に付き添っている、元は小国のプリンセスでもあったリューの3人も舞台に登場します。この時の、ライトモチーフとも言える、美しい旋律は、この3人の人物像を、見ている観客にイメージを導いてくれます。

トゥーランドット姫を一目見たカラフは、恋に落ち、危険な婿候補として「トゥーランドット姫」が出題する3つの質問に答えるゲームに、エントリーします。今までの婿候補は答えられず、首を切られるという、過酷な婿選びなのです。

 

第2幕は、いよいよ、トゥーランドット姫とカラフの、問答のやりとりの場面です。

ドラマティックソプラノが演じる、トゥーランドット姫は、その声の迫力で、3つの質問をカラフに投げかけます。あらゆるオペラの中でも、ソプラノとテノールが声で対決する

緊迫した、迫力ある場面です。グランドオペラの代表的なこのオペラの主役達には、声のヴォリュームも必要ですし、声のクオリティの高さも要求されます。工藤さんは、充分にこれらを満たしていると感じました。このコンサートでは、第1問と第3問が、演奏されました。ソプラノはロシア出身の素晴らしい声の持ち主でした。3つの質問に総て正解した、カラフは、動揺したトゥーランドット姫の気持ちを、慮って、彼から質問を出して、時間と気持ちの猶予を姫に与えます。

それは「私は誰でしょう?私の名前を言うように!」と言うものでした。

 

第3幕は、冒頭にカラフのアリア、「誰も寝てはならぬ」ありますが、これは後の述べることにします。

プッチーニ自身は、病気(その後亡くなります)のため、この3幕の途中までしか

作曲できませんでした。ティムールとリュウーが捉えられて、群集と姫たちの「お前達はこの男の名前を知っているだろう!!」との、執拗な問いかけに、リューが、「氷のような姫の心もきっと愛を知ることで溶けるでしょう!」というアリアの後、傍にいた兵士の剣を取って、自害します。そして、カラフとティムールが、遺体に駆け寄り、「可愛そうなリュー、」と嘆く場面と音楽が続ます。ここまでプッチーニは楽譜に残しました。

その後のフィナーレのパートは、彼の弟子が、プッチーニの作曲スケッチを元に作曲しました。

 

大野さんは、プッチーニが、作曲した部分まで、レクチャーとして取り上げました。

ただ、彼は、「やはり、オペラとして上演される場合、プッチーニ自身が作曲した部分だけに捉われることは、ストーリーとして成り立たないので、弟子が、補筆したフィナーレの部分を上演する事は必要」とも述べていました。

 

さて、「誰も寝てはならぬ」ですが、総てのレクチャーと、出演者全員のカーテンコールが

終了した時、大野さんが、「皆さん、これで、オペラトゥーランドットが終わってしまうのは、何か心残りではありませんか?」と、突然舞台上から、客席に投げかけました。

そして、工藤和真さんを舞台中央に招き、「これから、日本を代表する一流のテノール歌手になるであろう、工藤和真さんに、誰も寝てはならぬを歌っていただきます!」と結びました。大野さんのピアノで、工藤さんの「誰も寝てはならぬ」が歌われ(素晴らしかった!)、客席からのブラヴォーで、このコンサートは幕を閉じました。

 

世界中の重要なオペラハウス、オーケストラで、指揮を取る、マエストロ大野和士さんに

大抜擢された、われ等のテノール「工藤和真さん」の、今後の活躍を期待しましょう!

彼は、11月9日、東京日生劇場の「トスカ」カヴァラドッシ役でメジャーデビューします。KIKI

 


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指揮者大野和士さん [音楽]

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大野和士さんは、今まで日本のクラッシック界に登場した最高の指揮者です。1960年東京生まれ現在59歳(新令和天皇さまと同じ歳)です。私の持論ですが、「指揮者」と「作曲家」(クラッシック音楽に限っても良いかもしれませんが)は、満ち溢れる音楽の才能と、人間としての満ち溢れる魅力、が無ければ、就いてはいけない職業だと思います。

例えば、シンフォニーや、オペラのスコアーを一瞥すれば、音が、彼等の頭に直ぐに鳴って来る音楽理解力。膨大なスコアーを暗譜出来る、記憶力。指揮者の心身に思い浮かんだ音楽を、演奏者に伝える技術力(これには、語学力も入ります。大野さんは、5カ国語を自由に使います)。「この人の為なら、心を捧げてみよう!」と、演奏者に思い起こさせる、人間力等。

大野さんは、日本の指揮者では、数少ない、オペラが振れる指揮者です。前回のブログ「New Tenor!」でもご紹介したように、世界的にみて、「オペラ」を振れない指揮者は、一流の指揮者では

ありません。

大野さんは昨年から新国立劇場の総監督に就任しました。

「まってました!!マエストロ大野さん!!」そう、叫びたいほど、嬉しい就任でした。

オペラハウスの総監督は、自身が指揮をするだけでは無く、シーズン総ての演目を決め、あらゆるネットワークを使って、世界中から、指揮者、演出家、美術家、ソリストを招集し、そのオペラハウスの

世界での地位を高めて行く事を担っています。

開場して22年経つ、新国立劇場ですが、世界のオペラハウスのランキング(プロスポーツのように

公式なランキングがあるわけではありませんが)からすると、まだまだ、4流、5流(?)と言ったところだと思います。

一流は、イタリアミラノスカラ座、ウイーン国立歌劇場、パリオペラ座(バスチーユの新オペラハウスも含む)、ロンドンコベントガーデン歌劇場、ニューヨークメトロポリタン歌劇場、この5オペラハウスです。それに続いて、ローマ歌劇場、ミュンヘン バイエルン州立歌劇場、バルセロナ テアトロリセウ等。続いて、シカゴリリックオペラ、サンフランシスコオペラ、ジュネーブ歌劇場、ベルギーモネ歌劇場、チューリッヒ歌劇場、ナポリサンカルロ歌劇場、ベルリンオペラ等でしょうか?

オペラ歌手も、先の5大オペラハウスに主役ソリストとして出演すれば、一流と呼ばれるようになります。(ワグナーに代表されるドイツ語オペラは、また少し違いますが)日本では、ソプラノの林康子さん、テノールの市原多朗さんお二人が、このレベルに達しています。残念ながら、日本ではこのお二人以降、オペラ界の金メダリストは出ていません。

オペラを振れる、数少ない日本人の指揮者の大野和士さんは、スカラ座をはじめ、5大オペラハウス

で、指揮をしています。

彼の素晴らしいところは、日本人の歌い手を、どしどし、抜擢していることです。新国立の総監督に就任してからは、より一層、力を入れて日本人歌手を育てています。

以前述べたように、新国立劇場、二期会、藤原歌劇団等のオペラ公演での、合唱のレベルの高さには、驚きます。でも、ソリストは、ほとんど育っていないのが、現実です。

大野さんの新国立劇場総監督の登場で、国際的に通用する日本人オペラソリストが多く誕生することを,ファンとして心より、願っています。KIKI



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New  Tenor !! [オペラ]

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マリオ・デル・モナコ、 フランコ・コレルリ、アルフレード・クラウス、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレラス、

ジャコモ・アラガル、フランシスコ・アライサ、ルチアーノ・パヴァロッティ、ヴィットリオ・グリゴーロ、

そして市原多朗さん。無類のテノール好きな私は、これらのテノール歌手たちの、生の(勿論、オペラハウスやコンサートホールで)声を聞く事ができました。それも、テノールにとって、ほんの、短い期間の「旬」の時にです。

ソプラノやバリトンの歌手たち(自分がソプラノだからかもしれませんが?)に比べ、テノールのある種「命がけ」とも言える、歌唱には、血沸き、肉踊るものがあります。テノール歌手たちの第一声は、彼等の人間性、人生、が、聞き手に伝わり、時には劇場の中にもかかわらず、どこか異国の地にいるような、また、自然の中に置かれているような不思議な錯覚に陥ります。

音楽演奏家の中で、歌い手だけは、楽器と異なり、小さい頃からの英才教育が通用しない分野です。

声と言う、肉体に備わった楽器で、音楽を表現するには、神様から与えられた何か?(Somethingels?)が必要なのです。加えて、その歌い手に備わった(あるいは、身に付けて行く)、知性、人格、教養、勇気、等が求められます。


今年29歳になった、工藤和真さんは、私が盛岡で発見しました。高校3年生の時出場した、「学生音楽コンクール」東日本二次予選で初めて彼の声を聞いたとき、荒削りではありましたが、「宝物!」

と思いました。様々なテノールの声を聞いていた私の耳に、神様が日本の若者にも、Giftを下さった

と感じました。私の大好きな、日本一のテノールの市原多朗さんに、芸大学部・大学院と師事し、

素直に、正しい道を今歩んでいます。そして、彼の家族や、友人、私も含めた多くの音楽家たち、

皆で、彼を育てて行っている感じです。


このブログの冒頭に写真は、ミラノスカラ座の劇場内です。

「目指せ、スカラ座!」 私の工藤さんへの、激励の言葉です。

Vittorio_fini_L'opera.jpgVittorio  Grigolo

近い将来、工藤さんが「日本出身のNew  Tenor」として、この舞台に登場したら、なんと嬉しいことでしょう!

今年11月9日、東京日生劇場 オペラ「トスカ」のカバラドッシ役で、日本での、メジャーデビューします。Kiki


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海老蔵の勧進帳 [歌舞伎]

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毎年、5月、歌舞伎座での「團菊祭」を、楽しみにしています。「團菊祭」は、昭和11年、九代目市川團十 郎と五代目尾上菊五郎の没後33回忌をきっかけに、この二人の名優を顕彰して始められたそうですに。

九代目團十郎は、歌舞伎や、歌舞伎役者の社会的な地位向上に尽力した人物と言われています。市川家に伝承されている、「歌舞伎十八番」を積極的に演じる事に加え、彼自身が、「新歌舞伎十八番」(人気狂言の鏡獅子等)を制定しました。また、九代目團十郎は、型が重要だった歌舞伎に、その役の人間性、精神性を投入したと言われています。これは、鎖国していた日本に。明治になり、新しい演劇も西洋から輸入されてきた影響とも言われています。

また、五代目菊五郎は、能狂言に題材を取った、「茨木」「素襖落し」などに歌舞伎音楽を加えた「新古演十種」を世にだしました。この名優二人が同時代に活躍したこともその後の歌舞伎にとって、幸運だったと思います。

戦争中や、戦後の危機を乗り越えて、「歌舞伎」は博物館に入ることなく、多くの日本人に支持され、現在もなお、人気を保っています。

この5月の「團菊祭」で、来年13代市川團十郎襲名が決まった、海老蔵が、

歌舞伎で最も人気のある出し物、「歌舞伎十八番」でもある、「勧進帳」の「弁慶」を演じました。九代目が提唱した、「型に魂を注ぐ」ことを、体現してくれた、素晴らしい「弁慶」でした。19歳(当時新之助)から、何度か演じてきた役ですが、42歳になって、やっと、型に魂が入り、それがオーバーフローする事無く、型も美しくエネルギーに満ち満ちたものでした。長寿社会になり、現在、42歳はまだまだ若い!と言われていますが、パフォーミングアーツの世界では、40歳台は「心・技・体」が最も充実する年代と思います。(特に男性は)

これはオペラでも、言えます。イタリアのテノール歌手、ヴィットリオ・グリゴーロと海老蔵は同じ年代です。これから、この二人の「旬」を楽しみたいと

思います。Kiki


タグ:歌舞伎
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サロメ [文学]

ajisai.jpgサロメの物語は、新約聖書に、ほんの1~2行書かれているにすぎません。紀元1世紀頃に、実在した女性とされています。彼女の義理の父はパレスチナの領主、ヘロデ王。実母は、ヘロデ王の后のヘロディアです。ヘロデ王は、サロメの父で、自身の兄である先代のパレスティナ領主を殺し、その后だった、ヘロディアを手に入れました。この、記述をもとに、様々な画家(ギュスターブ・モローや、グスタフ・クリムト等)が、画材として取り上げ、イギリスの作家、オスカー・ワイルドが、戯曲にしました。リヒャルト・シュトラウスはこのオスカーワイルドの戯曲をベースに、オペラに仕立て上げました。

実際の年齢は記述されていませんが、サロメは、多分、13歳~15歳くらいと思います。この年齢の娘が持つ、自身では認識していない、無邪気な、ある種のセクシャルな言動、振る舞いが、周囲を困惑させ、魅了させる力を持つことになります。

イエス・キリストに洗礼を授けたと言われる、洗礼者ヨハネ(劇中ではヨカナーン)は、ヘロデ王に捕らえられています。多くの民衆に、ヘロデ王にとって、良からぬキリストの教えを伝道したこと。また、ヨハネが、妻のヘロディアの倫理的に許されない再婚を非難したことが理由です。しかし、サロメは、ヨハネを一目見た時、彼の純粋な目と、揺るぎの無い信仰心に、サロメ自身では気付かない恋をしてしまいます。サロメは、地下牢にいる、ヨハネに会いに行きますが、ヨハネが全く関心を示さない事に

怒りを覚え、「私は貴方にきっと、吻けして見せる!」と予言します。

一方、ヘロデ王は、義理の娘(姪にもあたる)にも、邪まな野心を抱いています。サロメに、ダンスを強要し、見事に踊り終わったら、望みの褒美を与えると約束します。

そして、サロメは、それを承諾し、7つのベールの踊りを披露します。サロメが踊り終わったあと、ヘロデが、「それでは、お前の望むものを言うが良い!」と言うと、サロメは「私にヨハネの首をちょうだい!」と言います。ヘロデ王は、ヨハネを処刑し、その首を持ってこさせて、サロメに与えます。

サロメは、首だけになった、ヨハネに吻けをし、法悦の極みに達します。これを見ていたヘロデ王は

サロメに得体の知れない恐怖を覚え、彼女の処刑を命じます。物語はこれで終わります。

一人のエキセントリックな少女の所業が、多くの大人たちを翻弄し、キリスト教の真義を脅かす、この物語(聖書からすると実際に起こった事?)を、文学、美術、音楽に携わる多くの男性芸術家が、興味を抱き、作品に仕上げました。いずれも、高い芸術性を持った作品です。

音楽作品で言うと、「トリスタンとイゾルデ」「サロメ」「ペレアスとメリザンド」「ヴォツェック」「ルル」、R.シュトラウスの歌曲の数々等、人間の「エロス」を芸術にまで高める精神構造は、西洋キリスト教の人々に日本人は適いません。

オペラサロメの愉快なエピソードを披露しましょう。友人のスペインバルセロナ音楽院出身のテノール歌手に、モンセラ・カバリエ(バルセロナ出身のソプラノ歌手)がサロメを演じたAVを見せてもらったことがあります。あの巨体(多分150Kgはあった?)ですから、もちろん7つのヴェールの踊りは踊れません。バレリーナが、シルエットのような演出で踊りました。その踊りの後、褒美のヨハネの首は

銀の盆に載せてサロメ(カバリエ)の前に置かれます。そして、その後、サロメの長い独唱があり、いよいよ首だけになった、ヨハネに吻けをする場面です。ところが、クライマックスのこの場面になった時、急に「バリバリ」と音がしました。その盆が、壊れたのです。舞台用ですから、プラスチックで軽く作られていたのでしょう!普通のソプラノ歌手でしたら持ちこたえていた盆が、カバリエの体重に耐え切れず壊れてしまったのだと思います。続けて、カバリエは、怒りにかられたのか?自分で演出したのか?この壊れた盆を、次々と、壊しはじめたのです。手で引きちぎっては、投げ、ちぎっては投げ、盆は跡形も無くなりました。最後ヨハネの首に吻けして、カバリエのサロメは幕を閉じました。見ている私たちは抱腹絶倒!前代未聞のオペラサロメでした。Kiki



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天才少年 [音楽]

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クラシックのプロの音楽家(主にソリスト)になるためには、早期英才教育が必須条件です。特に、巷で騒音に満ちている日本に於いてはです。音楽(クラシック音楽と限定して良いかもしれません)に、よほどの、理解とセンスのある家庭環境で無いと、プロの音楽家は育ちません。生まれた時から、センスの良い音楽に接することで、耳が養われます。ピアノや、弦楽器であれば、2~3歳くらいから、

プロの先生について、レッスンを始めなければなりません。日本人は、アマチュアが大好きな人種です。音楽でも研ぎ澄まされた、極限を求めるプロの演奏や、作品より、手軽な、身近な音楽が好まれます。これだけ、アマチュア合唱団が、乱立している国も珍しいです。その、アマチュアの中で、コンペティションが行われ、優劣が競われます。ナンセンスです。

しかし、このごろ、少しづつ、英才教育が大切と思う人々が増えて来ています。スポーツ、将棋、などが挙げられます。クラシック音楽も昔から、天才少年が存在しました。しかし、天才より、平凡な子どもが「良い子」とされる日本では、彼らが、素晴らしい芸術家に育って行くことが難しい国かもしれません。現在19歳になった、天才ピアニストと呼ばれていた、牛田智大君は、いっさい、テレビは見ないそうです。そうなのです、テレビからは、美しく、貴い、音楽はなかなか聞き取れません。Kiki


 



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危険な関係 [映画・小説]

危険な関係  [Les  Liaisons Dangereuses]  

 書簡形式で書かれた「危険な関係」は1782年にフランスの作家(軍人でもあった)ピエール・

ショデルロ・ド・ラクロによって発表された。この小説は以降の恋愛小説の手本のような位置付けで今日に及んでいる。1789年に勃発するフランス革命の気運がパリを中心として迫っている世情の中、貴族間の恋愛沙汰だけをテーマにしたこの小説は一般民衆からしたら、「けしからん!!」

と言うことになるが、手紙に託された男女の心理の推移が推理小説にも劣らないスルルングな世界を展開している。

特に、原語のフランス語の原作に眼を通すと、当時のフランス貴族社会の言葉使いや、身分や年齢による言語表現の違い等が解り、興味深い。

物語は、20歳で未亡人になった美貌のメルトゥイユ侯爵夫人、かって彼女の愛人でもあったプレイボーイのヴァルモン子爵、子爵の遠縁で修道院育ちの貞淑なツールヴェル法院長夫人の3人と彼らを取り巻く数人の人物の相互の書簡で進んで行く。メルトゥイユ侯爵夫人が自身の嫉妬とヴァルモン子爵への復讐心から、ツールヴェル法院長夫人を誘惑させ、破滅に追い込んでいき、最終的には、子爵は決闘で死に、法院長夫人は精神を病み死を迎え、罠を仕掛けた侯爵夫人はそれが多くの人々の知るところとなり非難を浴び、逃亡先で天然痘で醜く変わりはてた姿のまま命を落とすという結末である。

この物語は、第2次世界大戦終戦以降、映画や舞台劇として世界中で取り上げられている。

フランスでは2度、ハリウッドでは3度映画化されているが、特に注目したいのは、2003年韓国で作られた映画「スキャンダル」と2013年中国で制作された映画「危険な関係」である。

「スキャンダル」は時代の設定を原作と同じ1780年代の朝鮮王朝貴族社会に置き換え、主人公のチョ夫人、プレイボーイのチョ・ウォン、遠縁のチョン・ヒヨンの三人の性格は、原作に忠実に設定している。言葉やビジュアルな違いを越え、この三人の心理を見事に表現している事と、18世紀後期の朝鮮の建物、調度品、衣装の美しさ、また、ラクロの原作が書簡集であることを踏まえ、当時交わされた、ハングル文字と 漢字による毛筆の美しい手紙の数々も登場するなど、映画として素晴らしい作品になっている。

また、2013年に公開された中国映画の「危険な関係」は1931年の上海と設定している。

第二次世界大戦がこれから始まろうとする爛熟した町であった上海を舞台に繰り広げられる恋愛劇は映画として充分に面白い。また、原作の主役三人が、それぞれ、モー・ジュ夫人を香港の女優

セシリア・チャンが、上海一の大金持ちのプレイボーイ シェ・イーファンを韓国の俳優 チャン・ドンゴン(彼自身が、中国語で演じている)が、貞淑な遠縁の夫人 ドゥ・フェンユーを中国の人気女優 チャン・ツィイー が演じている。この3人が表現する心の機微は見事で、映画ならではの、クローズアップの技法も加わって心理劇としての面白さも充分である。この中国版で特筆したいことは、原作ではヴァルモン子爵の伯母として多くの手紙を書いているロズモンド夫人を、イーファンの祖母ドゥ・ルイシェ夫人と置き換えて登場させていることである。中国の名女優のリサ・ルーが演じるこの役が作品に、より一層の厚みを加えている。

18世紀末にフランス人によって書かれたこの文学作品が、200年以上の年月を越え、アジアの映像作品としてよみがえっている奇跡を、アジア人の一人として興味深く、また、嬉しく思う。Kiki

 


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アラン・ドロン 続き [映画]

m_E.jpg今から50年以上前、私は、2箇所のターミナル駅で乗り換えて、高校に通っていました。ある日、学校の帰りがけ、ターミナル駅にあるデパートにさしかかった時、「フランスの映画俳優

アラン・ドロン サイン会」 と言う看板が眼に留まりました。これまでに、彼の映画は、何本か観ていました。特に「太陽がいっぱい」は、高校生でしたが、大きな衝撃を受けた映画でした。家では、高校生が一人で、または、友人同士で「映画」を観ることは禁じられていましたが、母が映画好きで、たしか、この映画も母と一緒に観た覚えがあります。

生のアラン・ドロンに会える!との思いで、会場に赴き、列に並びました。比較的空いていたのが、意外でした。そして私の順番が来て、至近距離70cmくらいの距離で、彼を見ることができました。

後にも先にも、「世の中でこのように美しい男性がいるのだ!」と感じたのは、アラン・ドロン以外ありません。

比較的華奢で、日本人と比べると、小顔だった印象があります。そして、ブルーグリーンに少し灰色が入った瞳の色が今でも忘れられません。アラン・ドロン自身、彼が、最も美しかった旬の時だったと

思います。

サインを抱え、意気揚々と、帰宅のために、私鉄駅に行こうとしたとき、ポンポンと肩を叩く人がいました。スーツ姿の女性でした。制服姿の私に、「貴女、高校生でしょ?今日学校どうしたの?」 この日は、中間試験の日で、学校は午前中で終わりでした。彼女は、私服の女性警官でした。この事を説明すると、女性警察官は「気を付けてお帰りなさい!寄り道せずにね!」と言って、立ち去って行きました。

その後、アラン・ドロンの映像を見るたびに、このエピソードを思いだします。

ところで、あの貴重な「サイン入りプロマイド」何処へ行ってしまったかしら?Kiki

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アラン・ドロン [映画]

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「太陽がいっぱい」の原作は、原題[The  Talented Mr.Ripley]は、アメリカの小説家パトリシア・ハイスミスの小説で、1950年頃ニューヨークからイタリアを舞台に、戦勝国アメリカの、家柄もお金も無いそして、容姿も冴えない、青年トム・リプリーの野心をテーマにしたものです。1999年、ハリウッド映画「リプリー」が、原作を忠実に表現しています。「太陽がいっぱい」と、比較すると、とても興味深いです。

この原作を、ルネ・クレマンが興味を持ち、アラン・ドロンとモーリス・ロネを起用して映画化したことは

画期的で、この映画が無かったら、その後の俳優アラン・ドロンは存在しなかったかもしれません。

同じ頃、アラン・ドロンは、イタリアの映画監督ルキーノ・ヴィスコンティに抜擢さ、2本の重要な映画に出演します。「若者のすべて」と「山猫」です。(「若者のすべて」の日本語題名も変です。原題は「ロッコとその兄弟」です)。

ヴィスコンティ監督は、イタリア貴族、ミラノの領主のヴィスコンティ家の跡継ぎでした。しかし、若い頃には、彼独自の正義感とムッソリーニ以降のイタリアの実情を嘆き、共産党の親派であったこともあります。しかし、DNAから言っても、彼の芸術至上主義、美的感覚は、他を圧倒しています。

ヴィスコンティは、ミラノスカラ座のオペラの演出していた時期が、ありました。

伝説があります。マリア・カラス主演、カルロマリア・ジュリーニ指揮、ヴィスコンティ演出の、ヴェルディ「椿姫」は、歴代のスカラ座の「椿姫」の中でも秀逸と言われています。カラスも比較的若く、ほとんどスカラのデビューだったようです。ヴィスコンティは、リハーサルの約1週間、カラスには、舞台の

上の歩き方、声は出させず、演技の基礎を叩き込んだと言われています。この「椿姫」以降、他のソプラノの「椿姫」はことごとく、失敗に終わっています。ある時は、ソプラノが急に声が出なくなったり、舞台装置に異変が起こったり! 皆、カラスとヴィスコンティの「呪い」と言っています。

そのような、ヴィスコンティ(彼は美貌の少年と青年を愛しました。)に見出され、アランドロンは益々

世界的な人気俳優になって行きます。ヴィスコンティとの映画は、この2本だけです。

ヴィスコンティの映画を観ていると、若者の、ほとんど瞬間的な、ある一定時間しか存在しない、「美貌」「あやうさ」「ある種の毒」を映像の中に取り込みます。その俳優の「成長」「自立」等はお構いなしです。とても「残酷」です。「ベニスに死す」の、タジオを演じた、スエーデンの俳優、ビョルン・アンドレセンや、「地獄に堕ちた雄者ども」「ルードヴィッヒ」のヘルムート・バーガーもその犠牲者かもしれません。

2本の映画の後、アラン・ドロンは、ヴィスコンティから離れます。彼は、ヴィスコンティのこの「残酷」さを、嗅ぎ取っていたのかもしれません。

その後の、ほとんどのアラン・ドロンの映画は、観ています。けれど、ヴィスコンティの2本の映画にみる、彼の美しさ、若者の持つ溌剌さと一瞬の夢、を感じる映像は他にありません。


生のアラン・ドロンとの遭遇は、次回にいたします。Kiki





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街の音 [音楽]

Mejiro_MayerHall_Concert.jpg街の音が美しいなと感じたのは、ウィーンでした。もちろん都会ですから、、車の音、電車(ウィーンには路面電車があります)の音、人々のざわめき等が聞こえてきます。しかし、時々聞こえる教会の鐘の音、弦楽器や、木管楽器等の路上ライブの音楽、も電気を通したもので無く(もしかして条例で電気増幅機器の使用禁止されているのかもしれません)あくまで、アコースティックなものに限られれます。

そして、電車で30分も乗れば、ウィーンの郊外の田園地帯に行けます。そこでは、鳥の声などがはっきりと聞こえてきます。ベートーベンが「遺書」を書いたので有名な、ハイリゲンシュタットも電車で30分くらいの場所にあります。彼が住んだ家(ベートーベンは引越し魔でウイーンの中でも60回以上引越ししたと伝えられ、ウイーンのいたる処に、「ベートーベンの家」があります)のすぐ裏に教会があり、1日に数回時の鐘がなります。ベートーベンは、家からその鐘を見て、明らかに揺れていて、鐘が鳴っているのにかかわらず、自分の耳に音が聞こえてこなかった事で、自分の耳が聞こえないことを絶望的に知ることになります。

西洋キリスト教音楽は、元々は教会の中で歌われる聖歌から初まり、教会と言う石作りの内部で繰り広げられる「音空間」、残響や、倍音により、ハーモニーが生まれ、それらが発展して、今日の音楽にまで発達して来たと考えられます。現在は、日本のように、「キリスト教」とあまり密接では無い国々でも西洋音楽は普及しています。但し、音に関するセンスは、ウィーンの街の音に代表されるように、日常的なことで耳が培われると思われます。もちろん、自然の中に存在する、様々な音に接するのも大事です。それと、建物の中の音体験も加わって、耳のセンスは養われます。持論として、小さな頃からアコースティックな音に接する機会が多いほど、良い耳のセンスを持つことができるでしょう。

クラシック以外のライブに行く時、私は「耳栓」が欠かせません。それでも聞こえてくる音の強さに恐怖すら感じています。Kiki

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