アラン・ドロン [映画]

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「太陽がいっぱい」の原作は、原題[The  Talented Mr.Ripley]は、アメリカの小説家パトリシア・ハイスミスの小説で、1950年頃ニューヨークからイタリアを舞台に、戦勝国アメリカの、家柄もお金も無いそして、容姿も冴えない、青年トム・リプリーの野心をテーマにしたものです。1999年、ハリウッド映画「リプリー」が、原作を忠実に表現しています。「太陽がいっぱい」と、比較すると、とても興味深いです。

この原作を、ルネ・クレマンが興味を持ち、アラン・ドロンとモーリス・ロネを起用して映画化したことは

画期的で、この映画が無かったら、その後の俳優アラン・ドロンは存在しなかったかもしれません。

同じ頃、アラン・ドロンは、イタリアの映画監督ルキーノ・ヴィスコンティに抜擢さ、2本の重要な映画に出演します。「若者のすべて」と「山猫」です。(「若者のすべて」の日本語題名も変です。原題は「ロッコとその兄弟」です)。

ヴィスコンティ監督は、イタリア貴族、ミラノの領主のヴィスコンティ家の跡継ぎでした。しかし、若い頃には、彼独自の正義感とムッソリーニ以降のイタリアの実情を嘆き、共産党の親派であったこともあります。しかし、DNAから言っても、彼の芸術至上主義、美的感覚は、他を圧倒しています。

ヴィスコンティは、ミラノスカラ座のオペラの演出していた時期が、ありました。

伝説があります。マリア・カラス主演、カルロマリア・ジュリーニ指揮、ヴィスコンティ演出の、ヴェルディ「椿姫」は、歴代のスカラ座の「椿姫」の中でも秀逸と言われています。カラスも比較的若く、ほとんどスカラのデビューだったようです。ヴィスコンティは、リハーサルの約1週間、カラスには、舞台の

上の歩き方、声は出させず、演技の基礎を叩き込んだと言われています。この「椿姫」以降、他のソプラノの「椿姫」はことごとく、失敗に終わっています。ある時は、ソプラノが急に声が出なくなったり、舞台装置に異変が起こったり! 皆、カラスとヴィスコンティの「呪い」と言っています。

そのような、ヴィスコンティ(彼は美貌の少年と青年を愛しました。)に見出され、アランドロンは益々

世界的な人気俳優になって行きます。ヴィスコンティとの映画は、この2本だけです。

ヴィスコンティの映画を観ていると、若者の、ほとんど瞬間的な、ある一定時間しか存在しない、「美貌」「あやうさ」「ある種の毒」を映像の中に取り込みます。その俳優の「成長」「自立」等はお構いなしです。とても「残酷」です。「ベニスに死す」の、タジオを演じた、スエーデンの俳優、ビョルン・アンドレセンや、「地獄に堕ちた雄者ども」「ルードヴィッヒ」のヘルムート・バーガーもその犠牲者かもしれません。

2本の映画の後、アラン・ドロンは、ヴィスコンティから離れます。彼は、ヴィスコンティのこの「残酷」さを、嗅ぎ取っていたのかもしれません。

その後の、ほとんどのアラン・ドロンの映画は、観ています。けれど、ヴィスコンティの2本の映画にみる、彼の美しさ、若者の持つ溌剌さと一瞬の夢、を感じる映像は他にありません。


生のアラン・ドロンとの遭遇は、次回にいたします。Kiki





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街の音 [音楽]

Mejiro_MayerHall_Concert.jpg街の音が美しいなと感じたのは、ウィーンでした。もちろん都会ですから、、車の音、電車(ウィーンには路面電車があります)の音、人々のざわめき等が聞こえてきます。しかし、時々聞こえる教会の鐘の音、弦楽器や、木管楽器等の路上ライブの音楽、も電気を通したもので無く(もしかして条例で電気増幅機器の使用禁止されているのかもしれません)あくまで、アコースティックなものに限られれます。

そして、電車で30分も乗れば、ウィーンの郊外の田園地帯に行けます。そこでは、鳥の声などがはっきりと聞こえてきます。ベートーベンが「遺書」を書いたので有名な、ハイリゲンシュタットも電車で30分くらいの場所にあります。彼が住んだ家(ベートーベンは引越し魔でウイーンの中でも60回以上引越ししたと伝えられ、ウイーンのいたる処に、「ベートーベンの家」があります)のすぐ裏に教会があり、1日に数回時の鐘がなります。ベートーベンは、家からその鐘を見て、明らかに揺れていて、鐘が鳴っているのにかかわらず、自分の耳に音が聞こえてこなかった事で、自分の耳が聞こえないことを絶望的に知ることになります。

西洋キリスト教音楽は、元々は教会の中で歌われる聖歌から初まり、教会と言う石作りの内部で繰り広げられる「音空間」、残響や、倍音により、ハーモニーが生まれ、それらが発展して、今日の音楽にまで発達して来たと考えられます。現在は、日本のように、「キリスト教」とあまり密接では無い国々でも西洋音楽は普及しています。但し、音に関するセンスは、ウィーンの街の音に代表されるように、日常的なことで耳が培われると思われます。もちろん、自然の中に存在する、様々な音に接するのも大事です。それと、建物の中の音体験も加わって、耳のセンスは養われます。持論として、小さな頃からアコースティックな音に接する機会が多いほど、良い耳のセンスを持つことができるでしょう。

クラシック以外のライブに行く時、私は「耳栓」が欠かせません。それでも聞こえてくる音の強さに恐怖すら感じています。Kiki

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Obsessed [映画]

bara.jpg2014年公開の韓国映画、[Obsessed]( 悪霊や悪夢に取り付かれること)(日本題名 [情愛中毒]はあまり良い題名とは言えない?)は、韓国人気俳優ソン・スンホン主演と濃厚なラブシーンで、評判になった映画です。

しかし、この映画は、韓国人・韓国社会の様々な出来事、問題点、反省を背景にした、とても深い内容の映画と思います。

この映画の大きなテーマは、韓国・韓国人の「ベトナム戦争」です。


ベトナム戦争の終盤頃、ベトナム帰還軍人である、主人公のキム・ジンピョン少佐は、ベトナムでの勇敢な戦い振りで「英雄」として軍の教育係りの職に付き、上官の娘とも結婚し、順調にエリートの道に進んでいるように見えました。しかし、彼は、ベトナムでの過酷な体験から、精神を病んでいて、精神科のカウンセリングを受けたり、大変なヘビースモーカーでもありました。

ある日、ジンピョンの官舎の隣に、部下の夫婦が住むことになります。部下のウジンもまた、ベトナムの帰還兵で、ジンピョンを「ベトナムでの英雄」として尊敬していました。妻のガフンは、母が中国人、父が韓国人と言う、複雑な家庭の出で、幼いころから、現夫のウジンの家に預けられ、無理やり、彼と結婚させられたと言う事情も抱えています。

軍人の妻たちは、主に、ベトナムで負傷した、傷痍軍人たちが入院する病院で、彼らの看護をするボランティアを定期的に行っていました。ガフンもこのボランティアに初めて参加することになりました。ところが、ガフンの担当した、足を失っていたベトナム帰還兵が、突然、「ベトコンが俺を殺しにやって来る!」と大声で叫び、枕の下に隠し持っていたナイフで、看護していたガフンの首に切りつけます。

この時、引率役のジンピョン少佐が、間一髪、この傷痍軍人からナイフを取り上げ「ここはベトナムではないよ!君はもうソウルに戻ってきているから安心して」と説得し、ガフンを助けます。

これを機に、ジンピョンとガフンの心は超接近して行きます。

ジンピョンには、やはりベトナム帰還兵で、小さなクラブを経営する友人がいます。ジンピョンは彼には様々な相談もし、ありのままの自分をさらけ出す大切な友人でもありました。彼は音楽が好きで、その店にはいつもクラシックの音楽が流れていました。(LPレコード)ある時は、テノール歌手が歌う

ドニゼッティ作曲のオペラ「愛の妙薬」の「人知れぬ涙」でした。彼が言います。「ベトナムにいた時、アメリカの流すラジオのクラシック専門のチャンネルで、これを覚えた。過酷な戦場で、どれだけ、慰められたか知れない!」  また、ある日、店で、友人とジンピョンと二人でテレビで中継された、アメリカの月面着陸の映像を見ていた時、彼は言います。「ヤンキーのやつらは、こんなに凄いことやってのける連中なのに、ベトコンと対した時の、あの無様な姿は、一体何なのだ!同じアメリカ人か?」

ジンピョンとガフンの関係は、ついに、それぞれの家族や、軍の知るところとなり、ジンピョンは離婚し

軍も免職になります。そして彼は再び、まだ戦争がくすぶる、ベトナムへ旅立ちます。一民間人として

タイとベトナム国境付近で、ガイドの仕事に就きます。

数年後、ガフンのもとに、一人のベトナムの帰還兵が訪ねて来ます。「ある人の遺言でこの写真を届けに来ました。タイとの国境で我々韓国軍のガイドをしてくれていた人で、非常に勇敢な人だった。残念なことにベトコンの生き残りに殺されてしまった!所持品を調べていたら、この写真が出て来て、自分にもしものことがあったら、これを彼女に渡して欲しい!と書いてあった」それは、友人のクラブで撮った、ジンピョンとガフンのツーショットでした。


ベトナム戦争を扱ったアメリカ映画は、「ディアハンター」、「地獄の黙示録」、「プラトーン」の3本が有名です。この3本を観ると、アメリカのベトナム戦争への贖罪の心と、戦争で犠牲になった多くのアメリカ人へのオマージュを強く感じます。「映画の国」としてのアメリカ人のひとつの表現かもしれません。見るのに忍耐が要りますが、ベトナム戦争を忘れないための財産とも言える作品です。


そして、一方、この韓国映画「Obsessed]は、アメリカとは違った形で、韓国が関わった「ベトナム戦争」を、扱い、表現しています。立場は違いますが、近い人種の親近感のようなものを、私は、感じました。


ベトナムに送られた韓国兵は、1968年には5万人を超えた記録があります。戦争を始めたアメリカ軍に次ぐ数とも言われています。この事実を知って、韓国の映画やテレビドラマを観ると、日本の映画やドラマとは違った側面が見えて来て、興味深いです。Kiki

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眞しほ会 [邦楽・長唄囃子]

7112652[1].jpg眞しほ会は、歌舞伎・長唄 囃子方のお流儀の一つ、「藤舎流(とうしゃりゅう)」の現家元、藤舎呂船氏がプロの囃子方育成のために始めた会で、今年で34回目を迎えます。

歌舞伎の伴奏音楽には、義太夫、清元、常磐津、長唄等ありますが、長唄は、囃子も加わる大編成(フルオーケストラ?)で演奏される大変迫力のある歌舞伎音楽です。


歌舞伎とオペラは、とても似ている事が多いと私は考えます。第1はその誕生時期です。いずれも1600年前後と言われています。歌舞伎は、1603年、出雲(現在この出自は確かではないとされています。)のお国と言う踊り手が京都で「かぶき踊り」を創めたことによるとされています。また、オペラは、1597年フィレンツェで作曲家Periの作品「ダフネ」が上演された時とされています。

そして、いずれも、貴族、武士階級だけでなく、一般民衆の支持を得て発展を遂げてきました。但し、オペラはまず「音楽」ありきの舞台芸術である一方、歌舞伎はどちらかと言うと、演技、役者、舞台装置等が主で、音楽に関しては、オペラほどではありません。


しかし、長唄に関しては、歌舞伎の発達途上で、こちらも、オペラにおけるフルオーケストラのように、

劇を盛り立て、ストーリーをドラマティックに展開していくために、非常に重要な役目をする「音楽」として発展して行きました。長唄には欠かせない(長唄の曲によっては、唄と三味線だけのシンプルな設定のものもあります)お囃子は、元々、能楽から来たもので、編成・楽器も、能楽と同じです。藤舎流も元々、能楽囃子方がルーツとお聞きしたしたことがあります。

先日の第34回眞しほ会(2月28日)では、能楽でも有名な「竹生島」「勧進帳」が、演奏されました。

両曲とも、今日、能楽でも歌舞伎でも、上演される演目です。特に勧進帳は、歌舞伎十八番として

非常に人気が高い演目です。


「勧進帳」は1702年初代市川團十郎が草案し、1840年五代目市川海老蔵(後の七代目市川團十郎)が能の様式を取り入れて、ほぼ今の「勧進帳」で初演とされています。そして、長唄の名曲とされる「音楽」としての勧進帳(作詞 並木五瓶  作曲 四代目杵屋六三郎)は、度々、邦楽の演奏会でも取り上げられます。そして、この「音楽」としての「勧進帳」を聴く時、大げさかもしれませんが、私はは、日本の音楽芸術の奇跡を聴くような気がします。


と言うのは、鎖国していた日本には、1800年代に大輪の花が咲いた、西洋キリスト教音楽は、一切

入って来ませんでした。あくまで、日本独自の文化の中から生まれた音楽です。


7112683[1].jpg歌舞伎が、オペラに近い音楽劇(ミュージカルとは違う)と、強烈に感じたのは、2007年の十二代市川團十郎と現海老蔵一座による、パリオペラ座での歌舞伎公演です。この歴史的な公演を観劇することができたのは、私の宝になっています。そして、その時の「勧進帳」と「紅葉狩」のいずれもで、

歌舞伎音楽の真髄を堪能しました。オペラ座の隅々まで、届く、唄、三味線、囃子のアンサンブルは舞台上の演劇がより一層ドラマティックなものとなりました。あの音は、オペラ・音楽の殿堂、パリオペラ座ならでは?と深く感じました。


「ナポリを見て死ね!」(多分イタリアの?)と言う、言い伝えがありますが、「勧進帳を見て死ね!」とあえて、申し上げましょう!Kiki


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ロメオとジュリエット [オペラ]

Romeo_et_Juliette_TokyoOpera.jpgシエクスピア原作の「ロメオとジュリエット」は、オリジナルの「芝居」の他に、「オペラ」「バレー」「音楽組曲」そして近年「ミュージカル」と、様々な分野で取り上げられています。


言葉の問題がある「芝居」(ストレートプレイ)と異なり、プロコフィエフ作曲のバレー「ロミオとジュリエット」は、音楽と踊りだけで見ている者を「ロメオとジュリエット」の世界に誘ってくれます。それは、この物語が世界一有名な、だれでも知っているラブストーリーであることも大きいでしょう。


幸運なことに、このバレーの伝説と言われる、ルドルフ・ヌレエフとマーゴット・フォンティーンの舞台を見たことがあります。フォンティーンはバレリーナのピークはすでに過ぎた、多分40歳後半(?)だったのではないかと思いますが、15歳か?の初々しいジュリエットにしか見えませんでした。バレーが、踊るテクニックだけでなく、音楽を感じ、その役に成りきり、場面場面で、ジュリエットの感じた事々が、観客の目と心に美しく感動的な印象を与えるものだと深く感じました。そしてフレエフは、登場した時から、美しい、ただひたすらジュリエットを愛する、「ロメオ」でした。


このバレーが優れているのは音楽です。冒頭の、キャプレット家とモンタギュー家の対立する若者たちの群舞の音楽は素晴らしいです。レナード・バーンスタイン作曲のミュージカル「ウエストサイド物語」幕開けの群舞は、このバレーに倣ったものでしょう。両方を、映像だけでなく、舞台で見ることも興味深いです。


そして、大好きな「ロメオとジュリエット」は、グノー作曲のオペラです。

フランス語のオペラであることと、ロメオ(テノール)とジュリエット(やや軽いソプラノ)、主役二人が

音楽的にも声楽的にも非常に難しいことで、日本で上演(海外の引越し公演も含め)されることが

あまりありません。

本日、東京オペラプロデュース製作のオペラ「ロメオとジュリエット」見ました。もちろんすべて日本人キャストです。主役の「ロメオとジュリエット」は私の観たなかのベストでした。声も姿も演技もこのオペラにピッタリで、日本人でこれだけできるのだ!と感心し感激しました。芝居の「ロメオとジュリエット」は20歳台(あるいは10歳代?)の初々しい俳優たちが演じることが可能ですが、オペラの場合、声も音楽も優れた早熟な才能のある歌手が出現しない限りそれは無理です。ある程度、声自身もテクニックも身に付き、それでいて、姿・演技が、(お腹の出っ張ったテノールのロメオはありえません。いくら声が出たとしても)ロメオらしく初々しくなければならないのです!

それは、ジュリエットにも言えます。25年くらい前、やはり日本人キャストのロメオとジュリエットのオペラを観た時、、コーラスが「可愛い、美しいジュリエット!」と讃えてジュリエットが登場する場面で、私は、ジュリエットのお祖母さんが登場したのか?と思いました。

そのようなわけで、オペラ「ロメオとジュリエット」はなかなか上演が難しいのかもしれません。

でも、今日は、ロメオ: 城 宏憲  ジュリエット:梅津 藍  のコンビとても初々しく素敵でした。

昨年のニューヨーク メトロポリタンオペラの、 ロメオ:Vittorio・Grigolo   ジュリエット:Diana

Damrau  この二人の塾年カップルより、ズッと、グノーの音楽が求める、清純な純粋な若いラブストーリーに声も姿も演技もフィットしていました。  Kiki  


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