アラン・ドロン 続き [映画]

m_E.jpg今から50年以上前、私は、2箇所のターミナル駅で乗り換えて、高校に通っていました。ある日、学校の帰りがけ、ターミナル駅にあるデパートにさしかかった時、「フランスの映画俳優

アラン・ドロン サイン会」 と言う看板が眼に留まりました。これまでに、彼の映画は、何本か観ていました。特に「太陽がいっぱい」は、高校生でしたが、大きな衝撃を受けた映画でした。家では、高校生が一人で、または、友人同士で「映画」を観ることは禁じられていましたが、母が映画好きで、たしか、この映画も母と一緒に観た覚えがあります。

生のアラン・ドロンに会える!との思いで、会場に赴き、列に並びました。比較的空いていたのが、意外でした。そして私の順番が来て、至近距離70cmくらいの距離で、彼を見ることができました。

後にも先にも、「世の中でこのように美しい男性がいるのだ!」と感じたのは、アラン・ドロン以外ありません。

比較的華奢で、日本人と比べると、小顔だった印象があります。そして、ブルーグリーンに少し灰色が入った瞳の色が今でも忘れられません。アラン・ドロン自身、彼が、最も美しかった旬の時だったと

思います。

サインを抱え、意気揚々と、帰宅のために、私鉄駅に行こうとしたとき、ポンポンと肩を叩く人がいました。スーツ姿の女性でした。制服姿の私に、「貴女、高校生でしょ?今日学校どうしたの?」 この日は、中間試験の日で、学校は午前中で終わりでした。彼女は、私服の女性警官でした。この事を説明すると、女性警察官は「気を付けてお帰りなさい!寄り道せずにね!」と言って、立ち去って行きました。

その後、アラン・ドロンの映像を見るたびに、このエピソードを思いだします。

ところで、あの貴重な「サイン入りプロマイド」何処へ行ってしまったかしら?Kiki

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アラン・ドロン [映画]

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「太陽がいっぱい」の原作は、原題[The  Talented Mr.Ripley]は、アメリカの小説家パトリシア・ハイスミスの小説で、1950年頃ニューヨークからイタリアを舞台に、戦勝国アメリカの、家柄もお金も無いそして、容姿も冴えない、青年トム・リプリーの野心をテーマにしたものです。1999年、ハリウッド映画「リプリー」が、原作を忠実に表現しています。「太陽がいっぱい」と、比較すると、とても興味深いです。

この原作を、ルネ・クレマンが興味を持ち、アラン・ドロンとモーリス・ロネを起用して映画化したことは

画期的で、この映画が無かったら、その後の俳優アラン・ドロンは存在しなかったかもしれません。

同じ頃、アラン・ドロンは、イタリアの映画監督ルキーノ・ヴィスコンティに抜擢さ、2本の重要な映画に出演します。「若者のすべて」と「山猫」です。(「若者のすべて」の日本語題名も変です。原題は「ロッコとその兄弟」です)。

ヴィスコンティ監督は、イタリア貴族、ミラノの領主のヴィスコンティ家の跡継ぎでした。しかし、若い頃には、彼独自の正義感とムッソリーニ以降のイタリアの実情を嘆き、共産党の親派であったこともあります。しかし、DNAから言っても、彼の芸術至上主義、美的感覚は、他を圧倒しています。

ヴィスコンティは、ミラノスカラ座のオペラの演出していた時期が、ありました。

伝説があります。マリア・カラス主演、カルロマリア・ジュリーニ指揮、ヴィスコンティ演出の、ヴェルディ「椿姫」は、歴代のスカラ座の「椿姫」の中でも秀逸と言われています。カラスも比較的若く、ほとんどスカラのデビューだったようです。ヴィスコンティは、リハーサルの約1週間、カラスには、舞台の

上の歩き方、声は出させず、演技の基礎を叩き込んだと言われています。この「椿姫」以降、他のソプラノの「椿姫」はことごとく、失敗に終わっています。ある時は、ソプラノが急に声が出なくなったり、舞台装置に異変が起こったり! 皆、カラスとヴィスコンティの「呪い」と言っています。

そのような、ヴィスコンティ(彼は美貌の少年と青年を愛しました。)に見出され、アランドロンは益々

世界的な人気俳優になって行きます。ヴィスコンティとの映画は、この2本だけです。

ヴィスコンティの映画を観ていると、若者の、ほとんど瞬間的な、ある一定時間しか存在しない、「美貌」「あやうさ」「ある種の毒」を映像の中に取り込みます。その俳優の「成長」「自立」等はお構いなしです。とても「残酷」です。「ベニスに死す」の、タジオを演じた、スエーデンの俳優、ビョルン・アンドレセンや、「地獄に堕ちた雄者ども」「ルードヴィッヒ」のヘルムート・バーガーもその犠牲者かもしれません。

2本の映画の後、アラン・ドロンは、ヴィスコンティから離れます。彼は、ヴィスコンティのこの「残酷」さを、嗅ぎ取っていたのかもしれません。

その後の、ほとんどのアラン・ドロンの映画は、観ています。けれど、ヴィスコンティの2本の映画にみる、彼の美しさ、若者の持つ溌剌さと一瞬の夢、を感じる映像は他にありません。


生のアラン・ドロンとの遭遇は、次回にいたします。Kiki





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Obsessed [映画]

bara.jpg2014年公開の韓国映画、[Obsessed]( 悪霊や悪夢に取り付かれること)(日本題名 [情愛中毒]はあまり良い題名とは言えない?)は、韓国人気俳優ソン・スンホン主演と濃厚なラブシーンで、評判になった映画です。

しかし、この映画は、韓国人・韓国社会の様々な出来事、問題点、反省を背景にした、とても深い内容の映画と思います。

この映画の大きなテーマは、韓国・韓国人の「ベトナム戦争」です。


ベトナム戦争の終盤頃、ベトナム帰還軍人である、主人公のキム・ジンピョン少佐は、ベトナムでの勇敢な戦い振りで「英雄」として軍の教育係りの職に付き、上官の娘とも結婚し、順調にエリートの道に進んでいるように見えました。しかし、彼は、ベトナムでの過酷な体験から、精神を病んでいて、精神科のカウンセリングを受けたり、大変なヘビースモーカーでもありました。

ある日、ジンピョンの官舎の隣に、部下の夫婦が住むことになります。部下のウジンもまた、ベトナムの帰還兵で、ジンピョンを「ベトナムでの英雄」として尊敬していました。妻のガフンは、母が中国人、父が韓国人と言う、複雑な家庭の出で、幼いころから、現夫のウジンの家に預けられ、無理やり、彼と結婚させられたと言う事情も抱えています。

軍人の妻たちは、主に、ベトナムで負傷した、傷痍軍人たちが入院する病院で、彼らの看護をするボランティアを定期的に行っていました。ガフンもこのボランティアに初めて参加することになりました。ところが、ガフンの担当した、足を失っていたベトナム帰還兵が、突然、「ベトコンが俺を殺しにやって来る!」と大声で叫び、枕の下に隠し持っていたナイフで、看護していたガフンの首に切りつけます。

この時、引率役のジンピョン少佐が、間一髪、この傷痍軍人からナイフを取り上げ「ここはベトナムではないよ!君はもうソウルに戻ってきているから安心して」と説得し、ガフンを助けます。

これを機に、ジンピョンとガフンの心は超接近して行きます。

ジンピョンには、やはりベトナム帰還兵で、小さなクラブを経営する友人がいます。ジンピョンは彼には様々な相談もし、ありのままの自分をさらけ出す大切な友人でもありました。彼は音楽が好きで、その店にはいつもクラシックの音楽が流れていました。(LPレコード)ある時は、テノール歌手が歌う

ドニゼッティ作曲のオペラ「愛の妙薬」の「人知れぬ涙」でした。彼が言います。「ベトナムにいた時、アメリカの流すラジオのクラシック専門のチャンネルで、これを覚えた。過酷な戦場で、どれだけ、慰められたか知れない!」  また、ある日、店で、友人とジンピョンと二人でテレビで中継された、アメリカの月面着陸の映像を見ていた時、彼は言います。「ヤンキーのやつらは、こんなに凄いことやってのける連中なのに、ベトコンと対した時の、あの無様な姿は、一体何なのだ!同じアメリカ人か?」

ジンピョンとガフンの関係は、ついに、それぞれの家族や、軍の知るところとなり、ジンピョンは離婚し

軍も免職になります。そして彼は再び、まだ戦争がくすぶる、ベトナムへ旅立ちます。一民間人として

タイとベトナム国境付近で、ガイドの仕事に就きます。

数年後、ガフンのもとに、一人のベトナムの帰還兵が訪ねて来ます。「ある人の遺言でこの写真を届けに来ました。タイとの国境で我々韓国軍のガイドをしてくれていた人で、非常に勇敢な人だった。残念なことにベトコンの生き残りに殺されてしまった!所持品を調べていたら、この写真が出て来て、自分にもしものことがあったら、これを彼女に渡して欲しい!と書いてあった」それは、友人のクラブで撮った、ジンピョンとガフンのツーショットでした。


ベトナム戦争を扱ったアメリカ映画は、「ディアハンター」、「地獄の黙示録」、「プラトーン」の3本が有名です。この3本を観ると、アメリカのベトナム戦争への贖罪の心と、戦争で犠牲になった多くのアメリカ人へのオマージュを強く感じます。「映画の国」としてのアメリカ人のひとつの表現かもしれません。見るのに忍耐が要りますが、ベトナム戦争を忘れないための財産とも言える作品です。


そして、一方、この韓国映画「Obsessed]は、アメリカとは違った形で、韓国が関わった「ベトナム戦争」を、扱い、表現しています。立場は違いますが、近い人種の親近感のようなものを、私は、感じました。


ベトナムに送られた韓国兵は、1968年には5万人を超えた記録があります。戦争を始めたアメリカ軍に次ぐ数とも言われています。この事実を知って、韓国の映画やテレビドラマを観ると、日本の映画やドラマとは違った側面が見えて来て、興味深いです。Kiki

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映画「私はマリア・カラス」 [映画]

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映画「私はマリア。カラス」を見ました。
ラッキーなことに、私は1973年、マリア。カラスの日本での最初で最後のコンサートを聞くことができました。この3年後に彼女は心臓発作のため、パリの自宅で亡くなりました。53才でした。残念ながら、オペラでの彼女のステージは見たことがありません。
しかしながら、深紅のイブニングドレスで舞台に登場したカラスの存在感とエレガントな立ち居振る舞いに圧倒されました。そして、固唾を飲んで待っていた、この日の第一声は、今でも私の耳の記憶にインプットされています。彼女の声は、ドラマそのものでした。もちろん、カラスの声なのですが、それぞれのオペラのヒロインの人物像や、感情が、聞き手に迫ってくるのです。
数多くの録音」を残したカラスですが、私の中では、彼女の生の声は圧倒的に支配しています。
彼女のファンであった、フランスの名バリトン、ジェラール・スゼーは、言いました。
「スコアーを見ながらカラスの演奏を聴いてごらん!彼女ほど、楽譜に忠実に演奏している歌い手はいないよ!Piano やForteはもちろん、クレシェンドやデクレシェンドの始まりも終わりも作曲家が意図した通りに歌っている。見習わなければ!」ほんとうにその通りです。
皆様も試してみてください。  Kiki


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